2009年 01月 31日
カフェ ヴォルール・ドゥ・フルールの不思議な朝 浅野未恋 |
古いお客様はご存知かと思いますがヴォルール・ドゥ・フルールは午前中も店を開いていたことがあったのです。これはその頃のお話。昔風の硝子窓から朝の木洩れ陽が差し込み、漆喰の白壁の上で陽炎のようにチラチラと踊るのです。風のさんざめきと葉ずれの囁きが白いステージで妖精のペイジェントを繰り広げます。運が良ければ年に一度か二度 そんな日がありました。老人がやって来たのはそんな朝でした。
「金色の豆があるんだってね。」彼はクランク状にくびれたカウンターのそのくびれの角に収まると物柔らかに尋ねました。古いお客様はご存知かと思いますがヴォルール・ドゥ・フルールも最初はただ一軒、原宿店から始まったのです。これはその頃のお話。
「焙煎したあともなお金色に輝く豆があるんだってね。」彼は繰り返しました。
「これが黄金の豆か。」何故か老人の眼は輝き懐かしそうな輝きに満ちていました。「あいにく一粒だけですのでお分けするわけには・・・」「いや、見せていただくだけで充分です。」おいしそうに珈琲を飲み干すと彼は席をたった。「また、いつでもどうぞ」「明日、老人ホームに入るんです。お医者様が許してくれれば来ますよ。」今でも彼の淋しそうな遠くを見るような表情を思い出すことがあります。
老人が去ったのに私は気付きませんでした。珈琲代もいただき(当時は350円でした。)別れしなに挨拶もしたのに、彼が店を出ていった記憶がないのです。まるで ただ風が吹き抜けていっただけのようなそんな気がするのです。ガランとした店内にしばらくたたずんでいた私は彼の忘れ物を見つけました。カウンターの上にそれはありました。
運が良ければ年に一度か二度 原宿でも金と紫と橙色の夕暮れを見ることが出来ます。様々な光が空を満たし街路樹のざわめきが この世のものと思えぬ程荒々しく語りかけてくる夕暮れが。美しい人がやってきたのはそんな夕暮れでした。
30歳くらいの女性で長い髪が背中に揺れていました。煙草の似合う人で紫煙がお店の中を漂うのが心地良く思えたものです。「あの・・・」とまどうような澄んだ瞳。「ここで働きたいんですけど。」
古いお客様はご存知と思いますが、彼女はお店にはほんの半月程しか出ませんでした。口の悪いお客様は私がプロポーズしたからだとおっしゃいますがそうではありません。
彼女は豆の焙り方から珈琲のたて方、西洋陶器の扱い方、銀の食器の磨き方、果てはゴキブリホイホイの仕掛け方まで精通していました。それで つい 見せてしまったのです。「これが金色の豆?」私は少し誇らしげでした。
「それから、もう一つあるんだ。品の良いお客様の忘れ物でね。ほら・・・」銀色に輝く もう一つの豆。彼女の顔色はみるみる土気色に変わり、うめくようにくぐもった低声で言いました。「もう・・・来ていたのね。」
私は美しい人の前でまだ自慢を続けていました。愚かなものです。「こっちがヴォルール、こっちをフルールと名付けたんだよ。」「いいえ、金がプーリー 銀がチョーリーですわ。」「えっ。」「二つの豆を一緒にするために父がチョーリーを持って来たのです。」「お父さん?あなたの!」
「いつかきっと父が来ると、そう思ってこのお店に入ったのです。でも、もう、来ていたんですね。」「あなたは一体?」「お話しなくてはなりませんね。老人と豆の物語を。」
「金色の豆があるんだってね。」彼はクランク状にくびれたカウンターのそのくびれの角に収まると物柔らかに尋ねました。古いお客様はご存知かと思いますがヴォルール・ドゥ・フルールも最初はただ一軒、原宿店から始まったのです。これはその頃のお話。
「焙煎したあともなお金色に輝く豆があるんだってね。」彼は繰り返しました。
「これが黄金の豆か。」何故か老人の眼は輝き懐かしそうな輝きに満ちていました。「あいにく一粒だけですのでお分けするわけには・・・」「いや、見せていただくだけで充分です。」おいしそうに珈琲を飲み干すと彼は席をたった。「また、いつでもどうぞ」「明日、老人ホームに入るんです。お医者様が許してくれれば来ますよ。」今でも彼の淋しそうな遠くを見るような表情を思い出すことがあります。
老人が去ったのに私は気付きませんでした。珈琲代もいただき(当時は350円でした。)別れしなに挨拶もしたのに、彼が店を出ていった記憶がないのです。まるで ただ風が吹き抜けていっただけのようなそんな気がするのです。ガランとした店内にしばらくたたずんでいた私は彼の忘れ物を見つけました。カウンターの上にそれはありました。
運が良ければ年に一度か二度 原宿でも金と紫と橙色の夕暮れを見ることが出来ます。様々な光が空を満たし街路樹のざわめきが この世のものと思えぬ程荒々しく語りかけてくる夕暮れが。美しい人がやってきたのはそんな夕暮れでした。
30歳くらいの女性で長い髪が背中に揺れていました。煙草の似合う人で紫煙がお店の中を漂うのが心地良く思えたものです。「あの・・・」とまどうような澄んだ瞳。「ここで働きたいんですけど。」
古いお客様はご存知と思いますが、彼女はお店にはほんの半月程しか出ませんでした。口の悪いお客様は私がプロポーズしたからだとおっしゃいますがそうではありません。
彼女は豆の焙り方から珈琲のたて方、西洋陶器の扱い方、銀の食器の磨き方、果てはゴキブリホイホイの仕掛け方まで精通していました。それで つい 見せてしまったのです。「これが金色の豆?」私は少し誇らしげでした。
「それから、もう一つあるんだ。品の良いお客様の忘れ物でね。ほら・・・」銀色に輝く もう一つの豆。彼女の顔色はみるみる土気色に変わり、うめくようにくぐもった低声で言いました。「もう・・・来ていたのね。」
私は美しい人の前でまだ自慢を続けていました。愚かなものです。「こっちがヴォルール、こっちをフルールと名付けたんだよ。」「いいえ、金がプーリー 銀がチョーリーですわ。」「えっ。」「二つの豆を一緒にするために父がチョーリーを持って来たのです。」「お父さん?あなたの!」
「いつかきっと父が来ると、そう思ってこのお店に入ったのです。でも、もう、来ていたんですね。」「あなたは一体?」「お話しなくてはなりませんね。老人と豆の物語を。」
by hanadoroboh
| 2009-01-31 14:57
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